こんにちは、人形の秀月 十七代目です。
時には真面目に『中心円思考』について少々。

袋井市秋葉総本殿 可睡斎奉納 唐獅子牡丹 鐵心画
師が生前、部屋でよく話されていた事で、冊子にも掲載されたもです。
『中心円思考』
スポーツも初めは相手に勝つことが目標で練習に励む。そして負けてばかりいると嫌になって止めてしまう。
しかし、本当は練習に励んでいくうちに相手との勝負よりも、自分の満足する納得できるプレーができればよくなってくる。
そして、それを続けることによってスポーツに対する思考ができ、はじめてスポーツ精神が身に付き他人に教えられるようになる。
単に上手だから優れた指導者になれると思ったら間違っている。
確かに、そのスポーツに強くなろうとしての努力度合で技が結果として出るが必ず負ける。
そして止めたくなる。
逆に、その負をどのように受け止め次の修練に結び付けるか。
その間にもちろん相手の技術も勉強するだろうし試してみて自分なりに得るものがあろう。
やがて体力が限界を知り、今度はベストをつくす喜びを覚えて、やがて精神的悟りが開けて初めて他人に教えられるようになるのだと思う。
仕事でも趣味でも深く入れば同じと言える。
何回も試し(故に試合という)考え、実行してゆくと技を得ると同時に、何故どうして試行しているのかが思考できるようになって初めて悟る。
技をま真似ているだけではだめだというばかりの指導者と、真似をやらせて真似の段階を早く終わらせて次の創造に入らせる方法がある。
また一面で悟った人は、他の面でも直ぐに得られるものである。

よく書家の書、画家の絵は嫌われるが、この人たちは技術面の追及ばかりしてきた人たちで、他の面で心の修行を怠った為である。
文人たちは多くの本を読んでまた体験して悟りを開き、なおかつ絵の修業をして初めて得られるのである。
「二兎を負うものは一兎をも得ず」は平行思考であって、円思考は全て一点に向かっているから何の道でも同じと思う。
究極は一つなのだから。
ただし、円の中心までいかないとわからない。
私にはこんなに難しくは話さず、もっと噛み砕いて分かり易く例えを交え話してくださいました。
師である義父 鐵心は「技術・技法よりも人間性を重視され、人間性が作品に表れる」と常日ごろ言っておられました。
なので叱られる時は怒鳴ったりする事も無く、静かにズッシリ重たく悟る様にと叱られたものです。
その場で直ぐに答えを言う事は無く、必要最小限の言葉で相手が理解し気付くまで待つ方でしたね。
そうした意味でもとても忍耐強い方で、洞察力が鋭く、嘘も直ぐ見破り、下手な言い訳は通用せず、何よりも私が描いた絵を見せると「あんた、集中してないな」と全てを見透かされました。
優しくても甘くはない。
語りだしたらキリがありませんが、人形の世界とは異なる新しい価値観や世界を教えてくださいました。

よくおっしゃっていたのは、「人形の世界は「動」の世界で、水墨画の世界は「静」の世界。しかし、実は両方とも同じで「動」の裏に「静」があり、「静」の裏に「動」がある。それを見抜ける様にならないといかん」と。
十六代目の父は義父とは真逆で、とても気性も激しい人ですが実は共通点も多く、これは実際に双方に仕える事で初めて分かる事で、それが分かっただけでも私にはありがたい事です。
義父がある日、何十枚とお手本描きをされている時に「義父さん、職人みたいですね」と言うと、「おう」とその時の笑顔がとても嬉しそうで、「芸術家」と呼ばれるより実は「職人」と呼ばれるのが好きな方でしたね。
写真の袋井市の秋葉総本殿 可睡斎に奉納されている大襖絵の唐獅子牡丹ですが、実際に描いていた時の事を知っているのは私と義理母だけになり、可睡斎にも当時の事を知っている方はおりませんので、貴重な絵となってしまいました。
こう書いていくとなんだか、まるで禅の世界の様で難しく感じられますが、時には義理とはいえ時には親子として私が文句を言いながらも、男二人でランチバイキングのお店に行き、当然の事ながら会話も殆どなく食べていましたが気を遣っていただいたりして。
そうした方の下で修業させていただいた考えや価値観が基礎にある、人形業界ではちょっと変わった秀月の十七代目と思っていただければと。
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